昭和を代表する大スター、鶴田浩二さん。
その人気は絶大で、甘いマスクと渋い演技で多くの人を魅了しました。
しかし、鶴田さんは1987年、62歳という若さでこの世を去りました。
葬儀では軍歌が流れるなど、波乱万丈な人生を象徴するような、厳かで感動的なものでした。
俳優としてだけでなく、歌手としても活躍していました。
今回は、鶴田さんの死因や葬儀について調査していきます。
鶴田浩二の死因
結論から言うと、鶴田さんの死因は肺がんでした。
しかし、直接の引き金となったのは肺炎です。
晩年、俳優として精力的に活動していた鶴田さん。
亡くなる前年までドラマに出演するなど、その情熱は衰えることを知りませんでした。
しかし、実はこの頃、鶴田さんは病魔と闘っていたのです。
1985年、ドラマ撮影中の体調不良をきっかけに肺がんと診断されます。
しかし、周囲は鶴田さんの心を慮り、病名は本人に伝えず慶應義塾大学病院に入院し闘病生活を送ります。
それでも、鶴田さんは自身の体調の変化を感じ取っていたのかもしれません。
病を押して出演したドラマ「シャツの店」が、彼の遺作となりました。
そして、1987年5月、胸の痛みを訴えて再入院した鶴田さんは、肺炎を併発し、帰らぬ人となってしまいます。
軍歌と葬送ラッパが響く葬儀
鶴田浩二さんの葬儀には、俳優や歌手生かだけでなく、多くの戦友や元特攻隊員たちが参列しました。
これは、鶴田さんが戦争体験を持ち、特攻隊員役を演じた過去から、軍人たちから深い尊敬を集めていたためです。
出棺の際には、軍歌が流れ、葬送ラッパが鳴り響きました。
鶴田さんの亡骸は、旧海軍の白い夏服を身にまとい、棺は旭日旗で包まれていました。
まるで、映画のワンシーンのような、厳かな光景だったことでしょう。
鶴田浩二の人柄が偲ばれるエピソード
鶴田さんは、生前、自身の戦争体験を語る講演を全国で行い、戦争の悲惨さを後世に伝える活動をしていました。
また、巨額の私財を投じて戦没者の遺骨収集を行うなど、戦没者への熱い思いを抱いていたことでも知られています。
これらのエピソードからも、鶴田さんが多くの人々に慕われていたことがわかります。
葬儀に参列した戦友や元特攻隊員たちは、鶴田さんの死を心から悲しみ、その功績を称えました。
鶴田浩二のプロフィール
名前:鶴田 浩二 (つるた こうじ)
本名:小野 榮一 (おの えいいち)
生年月日:1924年12月6日
没年月日:1987年6月16日 (62歳没)
出身地:兵庫県西宮市
鶴田浩二さんは、高倉健さんや菅原文太さんと並ぶ、昭和を代表する映画俳優です。
若い頃は、その絶世の美男子ぶりでアイドル的な人気を博し、中年期以降は任侠映画や戦争映画での重厚な演技で、新たな魅力を開花させました。
また、歌手としても「傷だらけの人生」などのヒット曲を出し、独特の歌唱スタイルと渋い声でファンを魅了しています。
日本映画界を代表するスターとして、長年にわたりトップの座に君臨し続けました。
特に、鶴田さんの晩年は、1953年の映画「野戦看護婦」で、当時の日本映画史上最高額のギャラを獲得するなど、その人気は不動のものとなっていました。
その後、東映に移籍し、一時的なスランプを経験するも、1963年の任侠映画「人生劇場 飛車角」で復活を遂げます。
しかし、1985年に肺がんと診断され、闘病生活に入ります。
病を押してドラマ「シャツの店」に出演するなど、最後まで俳優としての情熱を失うことはありませんでした。
そして、1987年5月、肺炎を併発し、62歳という若さでこの世を去りました。
まとめ
鶴田浩二さんの死因や葬儀についてお伝えしました。
死因は肺がん(直接の引き金になったのは肺炎)
葬儀には多くの戦友や元特攻隊員たちも参列
鶴田さんの亡骸は、旧海軍の白い夏服を身にまとい、棺は旭日旗で包まれた
出棺の際には、軍歌が流れ、葬送ラッパが鳴り響いた
俳優、歌手としての輝かしい功績はもちろん、戦争体験や戦没者への思いなど、彼の生き様は、参列した人々の心に深く刻まれたことでしょう。
鶴田浩二という偉大なスターは、もうこの世にはいません。
しかし、残した作品や、その魂は、これからも多くの人々に影響を与え続け、永遠に生き続けることでしょう。
鶴田浩二さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
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