「日本一不幸役が板につく女優」として知られる木村多江さん。
その陰には、彼女の人生を大きく揺るがした父親の存在があります。
この記事では、木村多江さんの父親ついて迫ります。
木村多江の父の職業は会社員

木村多江さんの父親は、国際的なエネルギー企業で活躍するエリート社員でしたが、会社名は明らかにされていません。
元々、液化天然ガスの備蓄設備建設を担当した会社員でした。
シンガポールのオーチャードから2kmほどにあるチャイナタウンで、木村さんの父親が液化天然ガスの備蓄設備建設に携わっていた話が番組内で紹介されています。

20代でシンガポールの初代駐在所長として赴任しています。
この若さでシンガポールなど海外で活躍していることを考えると、かなり優秀な人物だったかもしれません。
また海外営業マンの年収が一般的な会社員より高いことから、木村多江さんの父親も高収入だったことが想像できます。
木村多江さんがクラシックバレエやピアノ、日本舞踊、そして小学校から白百合学園の出身なのも家庭の裕福さを物語っていますね。
木村多江の父親は厳格

木村多江さんの父親は、家庭では厳格な一面を持つ存在でした。
木村多江さんの高校生の時の門限は21時!
門限を破って帰宅した際には、玄関前で待ち構え厳しく叱責されたそうです。
また長電話には電話線を抜くなど、娘には厳しく接していました。
しかし、それは娘への深い愛情の裏返しでもありました。
また、木村多江さんが女優を志した際には、猛反対。
安定した将来を望む父親の願いと、娘の夢との間で葛藤があったのでしょう。
しかし、最終的には娘の意思を尊重し、陰ながら応援していたといいます。
木村多江の父親は49歳で急逝

木村多江さんが21歳の時に父親が49歳という若さで急逝。
仕事の会食中に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
死因は公表されていませんが、過労やストレスが原因だったのかもしれません。
父親の突然の死は、木村多江さんに深い悲しみと罪悪感を与えます。
父の心配事のひとつは私が大きかったので、自分が父を死に追いやってしまったんじゃないかっていう罪悪感みたいなものがずっと、10年ぐらい続きました。
心の中にもやもやずっとしてる感じで、その怒りを自分にぶつけて自虐的行為に走っていくようになりました。
引用元:日刊スポーツ
このような思いが、木村多江さんを長年苦しめたと語っていました。
しかし、時が経つにつれ、彼女は父親の死と向き合い、その経験を糧に女優として成長していきます。
父親の死が彼女の演技に深みを与え、「不幸役が板につく女優」としての評価につながったのかもしれません。
木村多江さんの父親は、厳格ながらも娘を深く愛し、彼女のキャリアにも大きな影響を与えた存在でした。
木村多江はバイトで家族を支える

木村多江さんの父親が亡くなったは、裕福な家庭で育った彼女にとって大きな転機となりました。
父親の死後、家計を支えるため、彼女は昼夜問わず働き始めます。
パン屋
ホテルスタッフ
レストラン
コーヒーショップ
知育研究所 など
4つのアルバイトをかけ持ちしていた時期もありました。
20代後半には、睡眠時間が1~2時間しかなかったというから驚きです。

想像を絶するハードワークですが彼女はこの経験を通して、精神的にも経済的にも自立し、女優としての成功への道を切り開いていったのです。
父が亡くなって10年くらい「父が亡くなったのは自分のせい」だって、ずっと自分を責めていました。
ー中略ー
私は不幸でいなきゃいけないんだって。そんな考えで過ごしてきました。
時間が流れたこともあるし、ある日ふと思ったんです。「父は、私が不幸になるよりも、幸せになることを望んでいるんじゃないか」って。
引用元:CHANTO WEB
「不幸でいなきゃいけないんだ」という自責の念に駆られながらも、家族のために懸命に働いた木村多江さん。
彼女の壮絶なバイト経験は、彼女の演技に深みを与え、多くの人々の心を打つ女優へと成長させた原動力の一つと言えるでしょう。
苦難を乗り越え、輝き続ける彼女の姿は、私たちに勇気と感動を与えてくれます。
まとめ
木村多江さんの父親についてお伝えしました。
いかがでしたか?
この記事を通して、木村多江さんの父親の素顔と、彼が娘に与えた影響について少しでも知っていただければ幸いです。
彼女の演技の背景には、このような家族の物語があったのです。
これからも木村多江さんの活躍を応援していきましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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